「狭い範囲だけど、日々の社会との触れ合いの中で思うこと」

自分が社会と触れ合った範囲内のことですが、思ったことを忘れないよう書き残したい

結論が出ないままの人間関係

夕方、近所の街路樹の紅葉でも観ようと思って20分くらいの予定で散歩に出た。

最後にお会いしたのがいつか、覚えていない

子供が同級生のお父さん(Tさん)が、おうちの前に出ているところに偶然出会った。

「お久しぶりです。お元気ですか」から始まり、お年賀でTさん宅が犬を飼い始めたことを知っていたので、ご家族とワンコが元気にしておられるか尋ねてみた。

ご家族のことを「今〇〇を目指してがんばっています」とか「犬を飼ったら、コロナで家族が家に居て参ってたので奥さんが一番喜んでいる」「子供が運転免許を取りに行っている」という話はしてくれるけど、

Tさんと話すと、いつものことだけど

(たまにしか会わないのに「いつもの‥」というのもヘンだけど)

「ところで〇〇ちゃん(うちの子供)は元気ですか?」「下のお子さん何年生でしたっけ?」とか、とにかくこちらのことは、なーんにも聞かれないまま終わってしまうのだ。

興味がない、興味を持ってもらえないのは構わないのだが、あまりの「自分の家族のことだけで会話が終わってしまう」ことの連発で

夫も私も、Tさんに会って話をすると(2、3年に一度だとしても)妙に疲れてしまっている気がする。

「あの人と話すと疲れるよね」という話はしたことがないけど、夫から(これも多分4年くらい前の出来事)

「今日帰り道に偶然Tさんに会って、途中まで一緒に歩いて帰ったけど、〇〇くん(息子さん)は会計士目指して専門学校行ってるんだって。歩いてる間中ご家族の話をたくさんしてくれたので、最後にうちはこんな感じです、って話しといたよ」

と聞いたのを思い出した。

YouTubeや実用書で「終始自分や自分の家族や自分の会社の話で、相手のことを聞こうとしない(相手に興味を示さない)人は避けても良い人間関係」であることを聞いて、

そうかもしれないなぁと思っていたところだったので、そのTさんだけじゃなく、あの人もそういうところあるよなぁなどと思いながら

「別に大切にしなくてもいい関係なのかも」

と思っている。次にまた偶然出会った時に、「やっぱりいらん」と確信することかもしれないし、意外にこちらのことを聞いてきたりして「いやいややっぱりいい人なのかも」と思い直すのかもしれない。

「もしかしたらこうかも」と結論を出さずに「でもなんだかなぁ」を引きずったまま進むしかない人間関係はいくつかある。

YouTubeで様々な考えに出会う

鬼の首を取ったように言うつもりもないし、もう活用している人はゴマンといることも分かっています。

だけど言いたい。

スポーツをやっていたり

子供との生活、パート勤務、

人間関係で

何か「困ったな。どうしよう」にぶち当たった時、YouTubeで検索すると必ず「今の私にぴったり😭」の有効な教えに出会うことができる。

勇気づけられるのは「こうして事態を克服(改善)」したよ」という「やり方」を惜しげなく教えてくれているのはもちろんのこと、「自分とは違う場所で、違う年齢で、違う立場で、自分と同じ目に遭った人がいたんだ」ということ。

「あきらめない、くさらない、のは私の自由だ」と考えられるようになってきた。

ここに来るまで、本当に長かった。

夫やたまにしか会えない友人、プラスYouTubeのおかげでようやくここまで来れた。

飲み会は実は苦手です

飲み会(食事会)は4人まで。

6人になると端と端の人は声が届かなくなり、3と3に話題が分かれて、結局集まったけど近況など聞けずに終わってしまうこともある。それ以上になるともう終わるのを待つしかない。

4人なら「今話している人」中心にみんなで話せるし、よっぽど自己中の人がいない限り万遍なく全員が話をしたり聞いたりできる。

「いつでも集まれる」なんてことはなくて、

みんな時間を合わせて店を予約して、突発的なことが発生しなくて‥そこに集える。

貴重な時間なんだから、なるべく発言機会は平等の方が楽しい、と思ってしまう。

自分の分からない話題で盛り上がりすぎて、それが1時間2時間と続く飲み会は、お尻が痛いだけで、苦痛。

セブンルール好きなんだけどね

フジテレビ火曜夜の「セブンルール」。

取り上げられる人物は、興味深い人が多い。

しかし、YOUを始めとするスタジオの4、5人の話は本当に要らない。

「今回のこの人」の話じゃなく、内輪で喋り始めたら、それがもうクソつまらない。

リモコン早送り⏭が調子悪くて、恨めしい。フジテレビにはこういう苦情は届いていないのだろうか。

いつまでも下手だと思うなよ

中学高校、そして大学も部活動クラブ活動をやらずに来てしまった。

上を目指して練習することはもちろんだけど、人間関係を学ぶ貴重な時期だったと今痛切に思う。

「運動なんかはやらなくていい」という、あまりにも世間知らずな労働経験なしの母の下、部活動に参加しないでいたら、高校の担任が私を見ていて「帰宅部ダメ」と言ってくれて、途中からマネージャーを約1年間やった。

でも「途中から」の参入は肩身が狭くて、「マネージャーとしての仕事」はとても楽しかったが、それ以外の部室で着替えながらのおしゃべりや冗談を言い合う時間などは得意ではなかった。人数で勝っていた一つ下の後輩からイジメられたりもした。

今、チームスポーツをやっていて「言葉に気をつけないといけない場面がたくさんあるなぁ」と思うことが多い。

なので「友人とおしゃべりする」ノリでは決して話せないし、何か意見ぽいことを言う時も私の中では細心の注意が必要だ。チームスポーツをやったことがないのだから。そんなつもりはなくても「え?それってこういうこと?(悪い意味)」と受け取られることもある。

「本当の自分が出せてない」と感じることもあるが、チームのみんなが好きなので、ちょっと嫌なこと悲しいことがあっても、普通に暮らしていたら出会わない貴重な修行の時間を持たせてもらっていると考えるようにしている。

そんな中で、自由に自分を出していいのは「上手くなること」だ。どんどん上手くなってポジションをもらうのは私の自由なんだと

ここ1ヶ月くらいの練習や試合の中でなぜか気持ちが湧き出てきた。

こういうふうに考えられるようになってから、「自分さえレギュラーで安泰ならそれでいい」「今のは自分が悪かったんじゃありません」「そこ何やってんの?」など、私が内心「ニセモノ」と認定している人のことが少し気にならなくなった。例え一瞬「このヤロー」と思ってもそれを引きずらなくなった。

「自分はここまでなのかな」という考えが頭の中からなくなってから練習が俄然楽しくなってきたし、「上手い人に聞いて教わろう!尊敬できるチームメイトとどんどん仲良くなろう!」「上手くなりたい気持ちと、どれだけ訓練するかは私の自由なのだぁぁぁ!今に見てろ」と、人に対してじゃなくて自分に対して思えるのが嬉しい。

どうかこの気持ちが持続していきますように。

秋の歌、口ずさむ

Amazon primeAmazon musicで、さまざまな音楽が聴けることが分かり、そうなると、音楽を最もよく聴いていた16〜18歳くらいの頃の音楽を探してしまう。邦楽も、洋楽も。

どこかで「人は18歳前後に聴いた音楽をもっともよく覚えているし影響を受ける」と読んだことがあるけど、本当に本当だと思う。

シカゴの「素直になれなくて」(hard to I'm sorry)は私にとって「秋の歌」だ。本国ではどの季節に流行ったか知らないけど、私が部屋でラジオをよく聴いたころ、日曜の夕方4時から全米トップ40をやっていて、熱心に聴いていた。何週にも渡ってトップ10入りしていたと思うので、今で言う「サザエさんなんとか」みたいに「明日からまた学校なんだな」と思いながら聴いていたかもしれない。

せつないメロディが余計にそう思わせたのかも。

学校はどちらかと言うと嫌だったけど、他に選択肢もなかったので、黙って通っていた。

あはは。

落ち込んだけど立ち直りが早くなった

この歳になっても、周りに分からないように巧妙に意地悪してくる人に久々に出会った。嫌だなぁ。一体何が気に入らなかったんだろう??

以前だったらクヨクヨして家事が手につかなくなって洗濯やゴハンの支度がダラダラになって家族生活に影響してしまってたけど、最近ようやく「意地悪されたってやることはやらなきゃ」で、

自分の「意地悪されて嫌だと感じている」心持ちは大事にしつつも、前に進めるようになってきました。

・玄関だけ片付ける

・洗濯物をたたんでしまってしまう

・献立を決めてしまう

・出汁だけはとっておく

・タイマーでご飯をセットする

・10分だけ読書する

・2階だけ掃除機かけちゃう

未熟者なので、他人さまから見たら、え?そんなこと?みたいな内容でも、一つづつ実行できると自分の中に勇気が湧いてくるというか、良い友人や知人の顔が浮かんできたり、家族からしてもらったことを思い出したり、なぜかウキウキしてくることがあるから不思議です。

「感情に浮き沈みがあっても、営みを忘れない」こんなことは若いうちから体に身に付いている人も多いと思いますが、今からでも遅くないと思いこんで、残りの人生、まだまだ私にとって尊敬できる友人に出会っていきたいと思っています。

また思いだすと思うけど、書き終わった今、少しラクになっています。